
| 3 逃走 |
| 「キツネ、バロックマニアって知ってる?」 |
| ルビが言った。 |
| 「ネットでね、どこにどういうバロックがい |
| るとか情報交換して、画像の交換したりして |
| 楽しんでるの。アクセスしてみる?」 |
| 「必要ない」 |
| 私は部屋の隅へ行って鉢植えをなおした。 |
| このごろ地震が多いので、決まった位置から |
| 微妙にズレる。固定する方法はないかと考え |
| ていると、ドアが開いた。客のようだ。 |
| 「……これ……」 |
| 入ってきたのは少年だ。ケガをして、血の |
| 流れている右手を、左手でかばうように押さ |
| えている。息が荒い。 |
| 「預かってて、これ」 |
| 少年は傷ついた震える右手を差し出した。 |
| きつく握っていた指を開くと、てのひらに、 |
| 血のついた鍵がふたつのっていた。 |
| 「中に入って」 |
| 私は鍵を受け取ると、とりあえず少年を抱 |
| えてソファへ横たえる。……違う。腕の中の |
| 柔らかい感触は、少年ではなく少女のものだ |
| と、そのとき初めて気がついた。 |
| 「誰にやられたんです」 |
| 私は布を持ってきて、少女の傷口をしばっ |
| て血を止めた。病院へ連れていくことも考え |
| たがやめた。本人が、病院よりここへ来るこ |
| とを選んだのなら、必要なのは医者ではなく、 |
| バロック屋の私だ。 |
| 「決まってるでしょ、ヤツらだよ」 |
| 「追われてますか」 |
| 少女はうなずく。 |
| 「ヤツらの狙いは」 |
| 「私のバロック。もちろん、その鍵がなけれ |
| ば取り出せないけど」 |
| バロックの遠い目をしたまま、少女はニヤ |
| リと笑ってみせた。 |
| 「もう行くね。鍵はあなたに預けたから。絶 |
| 対に、ヤツらに渡さないでね」 |
| 少女はふらふらと立ち上がった。 |
| 「次の連絡はいつになります?」 |
| 「私が捕まらなければ5日後に」 |
| 「合いことばは? こちらはキツネ」 |
| 「私はリエ」 |
| リエは体を右に傾け、傷をかばいながら出 |
| て行った。私はほっと息をついて鍵を引き出 |
| しにしまった。 |
| 「それで、あの子を刺したヤツらがここに来 |
| るの?」 |
| 一部始終を見ていたルビが訊く。 |
| 「どうかな。いまの客の傷はこのへんだろ。 |
| ほら、こうすればちょうどの位置だ」 |
| 私は左手で自分の右腕を刺すまねをした。 |
| 「でも、ヤツらな人っているよね」 |
| 「そりゃ、そういうのはどこにでもいるさ」 |
| 私は気にせず仕事を始めた。マシンを動か |
| し、リエのための新規ファイルを作成する。 |
| 5日後までに、私は妄想の場所の鍵を開け、 |
| ヤツらの狙うリエのバロックを取り出してお |
| かなければならないのだ。 |
| 翌日、用事で外出から帰ってみると、事務 |
| 所が妙な荒らされ方をしていた。わざとらし |
| い靴跡が床を汚し、奥のキッチンへ向かって |
| いる。水場以外はほとんど物置にしている場 |
| 所だ。行ってみると、カップはすべて叩きつ |
| けられたように床で割れ、積んでおいた古雑 |
| 誌はビリビリにされて散らかっている。 |
| しかし、被害はキッチンだけらしい。確か |
| めたが、机の上のマシンは無事だった。 |
| 「ヤツらね」 ルビが来て、カップの破片を拾い集めた。 |
| 「なんでキッチンだけ狙ったのかな」 |
| 「そりゃ、狙いがキッチンにあるからだろ」 |
| そして狙いは見つからなかった。これは、 |
| 家捜しのあとというより抗議だろう。 |
| 「床に血のあとがついてるよ」 |
| 「わかりやすいな」 |
| 「ねえ、この血のあとを追っていい? よく |
| 見ると、ちょっとずつ続いてる」 |
| 「追いかけるとヤツらの仲間と思われるぞ」 |
| 「楽しそう」 |
| 「客によけいな手を出すなよ」 |
| それからルビは来なくなった。 |
| 4日たち、リエのバロックはできあがった |
| が、連絡がない。私はバロック屋仲間の裏ネ |
| ットにアクセスした。ここでは、客になり得 |
| るバロックの情報が取引されている。 |
| リエの名と、追跡妄想をキーワードに検索 |
| すると、それらしい人物のデータが3つ出た。 |
| ひとりはすでに異形に殺され、もうひとりは |
| 私の事務所へ来るには住所が遠い。最後のひ |
| とり、佐井藤リエのデータを見て、私は、こ |
| れがあのリエだと確信した。私の作ったバロ |
| ックに、じつにふさわしいデータだからだ。 |
| さっそく私は、プリントアウトしたバロッ |
| クと、預かったふたつの鍵を持って出かけた。 |
| リエの家は通常区域の真ん中だった。 |
| どこかへ逃げているかと思ったが、ノック |
| すると、リエの声が返事をした。 |
| 「合いことばは?」 |
| 「キツネです。例の物を持ってきました」 |
| 「……」 |
| リエはわずかにドアを開け、隙間から細長 |
| い腕を出した。まだあのときの布を巻いてい |
| た。私は、その手にバロックを渡した。 |
| 『私は2頭のライオンを従えた青年だ。白は |
| 意志、黒は本能のライオンである。ライオン |
| は味方であり同時に私の肉体の一部であり、 |
| 砂嵐を蹴り、私を越えて、私を勝利へ導き走 |
| る。私はライオンと永遠を旅する……』 |
| 「ライオンは速いね」 |
| 「ヤツらには追いつけないでしょう」 |
| 「ライオンは大丈夫?」 |
| 「ええ。動物は人間より確実です。決して、 |
| あなたを見失うことはありません」 |
| リエは扉の隙間を縫うように出てきた。そ |
| して、私に料金を支払った。 |
| 「ありがとう。これで私、永遠にヤツらに捕 |
| まらないね」 |
| リエはそのまま外へ走っていった。私はひ |
| とり残って、開けっ放しのリエの家に入った。 |
| 中はガランとして誰もいない。ぶうんと低く |
| 機械のうなる音がするだけだ。私は迷わずキ |
| ッチンへ行った。うなり続ける巨大な冷蔵庫 |
| の影に、ルビが捕らえられていた。足首が、 |
| 手錠で水道管に繋がれている。 |
| 「ほら見ろ。バロックに深入りするからだ」 |
| 私はリエに返しそびれたふたつの鍵のひと |
| つを出して、手錠を外した。 |
| 「でも、あの子は私に優しかったよ。食べさ |
| せてくれたし」 |
| 「ひとりでつまらなかったからだろ」 |
| データによると、リエの両親は失踪中だ。 |
| もともとあまり子供をかまわない親だったら |
| しく、冷たい家庭で育ったリエは、ひとりで |
| 妄想にふけることが多い少女だったという。 |
| 追われる妄想は追われたい願望の裏返しな |
| のは、バロックの専門家でなくても知ってい |
| る。こうしてルビを捕らえたように、リエも |
| ヤツらに捕まって、ヤツらに所属したかった |
| のだ。だが、いまは妄想の黒いライオンと白 |
| いライオンがヤツらのかわりにそばにいて、 |
| リエを保証するから満足だろう。 |
| ルビは冷蔵庫につかまって立ち上がった。 |
| 「もしかして、あの子は事務所のキッチンに |
| 冷蔵庫がなかったから荒らしたのかな」 |
| よく見ると、このキッチンの冷蔵庫の扉に |
| は鍵穴がある。悪い予感がした。 |
| 私はリエの残したもうひとつの鍵を冷蔵庫 |
| の鍵穴に差した。扉が開いた。黒い巨大なか |
| たまりがふたつ、転がり出た。 |
| 「ヤダッ……!」 |
| ルビは顔を覆って座り込んだ。しまった、 |
| と私は心で舌打ちした。リエを追っていた妄 |
| 想の「ヤツら」は、家族ではない。家族を求 |
| めるあまりにしてしまったことへの、リエ自 |
| 身の罪悪感だったのだ。 |
| 「……バロック屋のくせに間違えたの」 |
| 震えながら、ルビは皮肉を忘れない。 |
| 「客が満足すればいいんだ。だいたい、最初 |
| はあの客が男か女かさえ間違えていた」 |
| どのみち、もう遅い。リエはすでに、妄想 |
| の世界へ逃げてしまった。なりそこないの2 |
| 頭のライオン−−黒紫に変色した、おそらく |
| は、リエの父と母の死体をここに残したまま。 |
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